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2013/06/21

使徒行伝 17章

使徒17:27  こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神は我々ひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。

パウロはひとり先にギリシャのアテネに到着しました。ギリシャ神話のお膝元です。そんな街ですから、至る所に無数の偶像が置かれていました。パウロはそれを見て「心に憤りを感じ」ました(17:16)。

それは、偶像の背後にあって働き、まことの神を見えなくさせているサタンに対する憤りでした。

人は肉の感覚で神を知ろうとするので、目で見たり、手でさわることのできる神を求めます。しかし、神は霊なるお方ですから、本当なら霊的な感覚で神を知るべきなのですが、それができません。なぜなら、人類はアダム以来、罪の中で人の霊的機能が麻痺しているからです。

そこで、偶像を作って神を肉眼で見たり、ふれたりしたいのです。そんな人間の肉の性質を逆手にとって、サタンは人間に偶像を作らせ、まことの神を見えなくさせます。聖書ではそのことを次のように記しています。

この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである
(Ⅱコリント4:4)。この場合の「この世の神」とはサタン(悪魔)のことです。

さて、まことの神を知らないギリシャ人に対して、パウロは、「神がどういう方なのか」ということから語らなければなりませんでした。

相手がユダヤ人であれば、「イエスがキリストである」ということから語り始めれば良かったのですが、旧約の土台がない異邦人に対しては事情が違います。これは、ルステラ伝道の場合もそうでした(14章)。

さて、神とはどういう方でしょうか。

①人の手で作った宮などには住まわれない(17:24)。

神は、ご自分の住む場所がなければ存在できない方ではないという意味です。神は万物の創造者であり自存者です。「自存者」とは、自ら存在する神という意味です。

つまり、神はご自分の住む場所として、この世界を創造なさったのではありません。

では、なぜ旧約の時代に、神はイスラエル民族に神殿を造らせたのでしょうか。神殿とは、神の住まいと呼ばれるのですが、神殿がなければ神の居場所が無いのではありません。それは比喩です。

神が人間と共に住まわれる方法を表すための比喩です。さらには、人間が天において神と如何にして共に住むのかを教えるための比喩です。

ソロモンは神殿を奉献するさいに、
天も諸天の天もあなたをお入れすることはできないと告白しています(Ⅱ歴代6:18)。「天」とは宇宙空間の天(space)です。「諸天の天(いと高き天)」とは霊界の天(Heven)です。

神は万物が存在する前から……つまり永遠前から存在なさいます。人間は傲慢にも、「神はいる、いない」などと議論しますが、それはちょうど、蟻が地球を蹴飛ばしているようなものです。

モーセにあらわされた神の自己紹介は、わたしは“有って有る者”でした(出エジプト3:14)。それは、神は自存者であるという意味です。

②人に仕えられる必要のないお方です(17:25)。

神は万物の創造者ですから、何か不足している方ではありません。資金不足なので献金が必要なのではありません。栄光不足なので、人間から讃美されなければならない方でもありません。

むしろ、「すべての人々に命と息と万物とを与え……」とあるように、大いに与えてくださるお方です。そればかりか、ついに御子さえ惜しまずに与えてくださるお方です。

それならどうして神は、私たちに、「神を礼拝せよ、讃美せよ、献金せよ」と命じられるのでしょうか。

それが人間の本分だからです。被造者がとるべき創造者に対するあるべき正しい態度だからです。被造者としてなすべき基本中の基本……それは創造者を認め、その方を礼拝することです。

神を恐れ、その命令を守ること……これは人の本分です(伝道12:13)。

礼拝は人間としての本来あるべき姿であり、持ち場です。その場を離れて反逆したのが悪魔とその手下たちです(ユダ6)。人が悪魔のようにならないために、神は礼拝を定められました。

神は人に仕えられる必要のないお方ですが、私たちは、人として生きるために、神に仕えさせていただいています。神に仕えさせていただける身分にされたこと……これは人として最高の栄誉です。

③ご自分をあらわされるお方です(17:27)。

まことの神を知らない人々は、神とはご自分を隠していて、「さあ人間よ。わたしを見つけてごらん」とか、「わたしのいる所までたどり着きなさい」と言われる神だと思っています。

しかし、神はそういう方ではありません。遠く離れておられる方ではありません。神が創造なさった万物は、まさに神の作品として、ご自身の存在を証しなさっています。

美しい空や山河の絵画を見て、この絵が自然に仕上がったとは考えません。作者がいるはずです。それならば、絵画より美しい山河や空の星々を見て、そこに偉大な作者がおられると考えるのは尚更です。

また、神はご自分をあらわすために、御言を語られます。私たちは神を見ることはできませんが、御言を聞くことができます。神は御言をとおしてご自身をあらわされます。

そして、世の終わりに至って、神は御言そのものである御子イエス・キリストを通してご自身をあらわされました。御子を見た者は父を見たのです。御子は自分の思いのままを語ったのではなく、父の御言です。

イエス様を通して神を知る者にされたことを感謝します。(Ω)

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